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guest01カフェ・ソロ、アンダルシアの田舎町で
目覚めたコーヒーの味

 

歌手 長谷川 きよしさん

いつも周りに歌があふれていたあの頃

Image3— 音楽そして歌に出会ったのはいつ頃ですか。

盲学校の小学部の先生が若くて情熱に燃えた音楽好きの人、小学唱歌も童謡もぜんぶ、皆でいつも歌っていました。聴く方も先生が満員電車のなかをかついできたSP盤のプレーヤーで、クラシックや歌謡曲、霧島のぼるなどまで聴いていました。
僕の病気は緑内障で、見えないのに眩しさで眼が痛くて上を向けない。
いつも下を向いていました。それまでも手術はしていましたが、小学校3年の時に視力は諦めて痛みをとる手術をして、やっと落ち着き、それで上を向けるようになって声もでるようになったのです。それからはもっと自然にいつでも歌っているという感じでした。

— 歌手になろうと思われたの何歳ごろからですか。

近所に3歳うえの歌の上手な友達ができて、アパートの屋上でよく歌っていました。プレスリー、二―ル・セダカ、コニー・フランシス、それこそポップスからスタンダード、歌謡曲まで端から歌詞を覚えて。それで中学生ぐらいから歌を歌って飯を喰っていきたいなと思うようになりました。
当時の状況で仕事といえばマッサージ・針灸か盲学校の先生くらいに限られていて、あとは何をやるのもゼロからの出発で周りとの戦いです。そうであるならば自分の好きなことをやって生きていきたいと思ったのです。

 

日本のコーヒーが酷かったあの頃

— プロとしての出発はいつですか。

歌うチャンスを求めてオーディションなどもよく受けていて、その一つがシャンソンコンクール。
ジルベール・ペコーの「そして今は」を歌って入賞し、それが1967年、18歳でのデビューとなり、その後は銀巴里に出ていました。

— 1969年のレコードデビュー「別れのサンバ」のヒットで一躍有名になられましたね。

それはそうですが、僕の場合は盲目の歌手というレッテルを貼られ、それでしか見られないという面がありました。マスコミの記者からも「着替えはどうするんですか」みたいな質問ばかり。それでずいぶん喧嘩もしましたし生意気なやつだと思われていました。
一般社会でも今は盲目は一つの個性として受け入れるようになりつつあるようですし、僕自身も相手がそこに興味を持つのはしょうがない、それを超えて共有できるものを探せいいと考えるようになりました。年齢の賜物です。

その頃、仕事の打ち合わせというと喫茶店。当時のコーヒーはひどいものでした。せいぜいサイフォンで淹れても何度も温め直しをしていて、それこそミルクと砂糖をどっさり入れてなんとか飲むという風でしたから、僕はコーヒーは苦手なんだと思っていました。

 

出会いはモロッコからスペインへの旅の途中

— 苦手なコーヒーが好きに変わる、そのきっかけは何でしたか。

元々僕はレコードシンガーになる気は全然なくて、人が待っていてくれる所で歌い、いいなと思ってくれる人がいればそれでいいという歌い手です。
大先生が作った曲を機械相手に歌うのが全然ダメ、ともかく自分が良いと思う歌だけを歌いたい。
それでスタジオではないレコーディングの方法はないかと考えました。1979年のことです。
では、旅をしながら、ここでこういう歌を歌いたいと、自然に盛り上がった時気持ちよく歌える場所で録ろうということになりました。
どうせなら人目のない外国へ行こう、僕はギターをやっていますからスペインが良い。地中海も渡ってみたかったのでまずモロッコへ行き、首都のラバトからフェズへ。
都会的なフランス統治の名残のある町の向こうにはカスバが広がっていて、ひと気のないモスクの城壁に登ってみたら、遠くから聴こえてきたのはコーランの祈り。それがだんだん近づいてきたかと思ったら、歌いながら通る葬列でした。前と後ろでまさにコール アンド レスポンスのソウルミュージック。あのようにして墓場まで進んでいったのかもしれません。
畑のまんなかで「小さな雛罌粟のように」というシャンソンを歌ったりもしました。

granada

— モロッコから地中海を渡ってスペインへ、ですね。

スペインで思い出深いのはアルハンブラ宮殿。日本酒一本抱えて館長に挨拶し、どうせやるなら観光客のいない閉館後にと、そこで「城壁」というのを歌いました。
そんな風な旅の途中、とある田舎の町でコーヒーを飲むことになりました。ブラックのカフェ・ソロとコンレーチェといってミルクと半々のものがあって、当時の僕はまだコーヒーは苦手と思っていましたから、コンレーチェ。
ところが隣の人のカフェ・ソロがあまり良い香りがしたものだから僕にもと。
そうしたら、ドライですっきり香ばしく、コクがあって、世界にこういうものがあるのかと、これがコーヒーなんだとほんとうに驚きました。

 

コーヒー、その多彩な愉しみ

— スペインでコーヒーに目覚めて後に、日本のコーヒーはどうでしたか。

帰国直後に倉敷で仕事がありました。担当の方がたまたまコーヒー屋さんでスペインでのことを話したら、日本のはコーヒーじゃないからねと、いろいろ教えてくれました。たとえば焙煎が充分で
はないと豆の個性ではなく酸味が出てしまうとか。その時淹れてくれたのがマンデリンで、それからは事あるごとにマンデリンのストレート。それも、ライブで全国各地を回るたびに好みに合うものを探して、気に入った豆を取り寄せて飲んできました。

— 1979年からというと約30年、音楽も主にライブを中心に活動されて40年、コーヒーと歌がほぼ重なっているという感じですね。

朝は起きたらまず、ザクセンハウスという筒型でスチール製のミルが気に入って、それで30gの豆を挽く。木のミルを使っているときは腱鞘炎になりました。
焙煎が浅いと力がいるから大変ですが、ザクセンハウスは大丈夫。豆を挽くというのも大事なプロセスとして苦にならないし、挽く時の香りとコーヒーを淹れているときの香りと、その香りの違いを味わうという楽しみもあります。
最近はコロンビア・ストレートの香りの良さを発見して、よく飲んでいます。エメラルドマウンテンは主張を控えた上品でとても優しい味。雑味がなくてクリアな感じです。クセがなく大人しく育ちの良い貴婦人のようですが、香りひとつとってもそのときの体調や気候によって変わる微妙なものですから、もう少しつきあっていくうちにいろいろな面が表れてくると思います。

— ライブの時は飲まれますか。

ライブの始まる前にコーヒーです。その時のコーヒーは元気にしてくれるコーヒー、テンションが上がります。
ライブのとき、歌っている自分を客観的に見ている部分と歌に没入している部分が両方ある。そのなかでお客さんが集中して聴いてくれて、みなの気持ちがひとつになって全体を共有していると感じられる時はとても充実感があります。良い感じで始まったのに、だんだんずれていってしまうこともあるし、それは毎回違います。

Image 76— ライブの後にはどんなものを飲まれますか。

この間福島市でライブの後で行ったマジー・ノアールというバー。自分の知識を自慢するのではなく、相手が求めている情報だけをきちっと提供してくれるという今どき珍しいバーテンダーが一人でやっているバーです。

そこでライブ終了後は喉に冷たいものはよくないので、コーヒーを使ったカクテルをだしてくれました。ストレートコーヒーに甘いリキュール、そこにシナモンの香りをきかせて、それはおいしかった。以来、家でもコーヒーにアマレットをいれて愉しむようになりました。

良い香りにつつまれで美味しいチョコレートやお菓子(今気に入っているのはアンリ・シャルパンティエのクッキー)と愉しむときのコーヒーはテンションを上げるのではなく、心底くつろぐというかリラクゼーションの妙薬です。

 

記憶のなかで香るコーヒーは

— 今までの人生で、特に記憶に刻まれたコーヒーを教えてください。

コーヒーに出会ってから約30年、人生の半分はコーヒーと共にあるという感じですが、記憶に深く残るコーヒーといえばやはりスペインの田舎町で飲んだカフェ・ソロ。そして倉敷のマンデリンです。でも、もういちど倉敷でマンデリンを飲んでも決して同じものは味わえないでしょう。
その時の天気や温度、湿度、水、淹れ方、淹れる人、そのほか幾つもの僕らにはわからない条件があわさってできあがる一杯ですから、同じコーヒーは二度とない、それは僕のやっているライブも同じかもしれません。

長谷川 きよし Kiyoshi Hasegawa

1949年東京生まれ。
1969年に『別れのサンバ』で鮮烈なデビューを飾って以来30年以上。当時から定評があった比類なきギター・テクニックと歌唱力は更に磨きがかかり、観衆を惹きつけている。 早くからシャンソン、サンバ、ラテン、ジャズ、ロックなどあらゆるジャンルの音楽を取り入れ独特のスタイルを確立した、ワールド・ミュージックというジャンルの先駆者。
他にデビュー以来、渡辺貞夫、日野皓正をはじめ、アルゼンチンのグラシェラ・スサーナ、ウニャ・ラモス、ブラジルのエリゼッチ・カルドーゾ、ビーア、フランスのピエール・バルー、シモーヌ・ラングロワ、加藤登紀子、柳家小三治、永六輔など幅広いジャンルのアーティストとの共演多数。
ソロ活動では、全国の小さなライヴハウスにも出演、歌とギターのシンプルで奥深い音楽世界を追求し、ファンを魅了し続けている。
椎名林檎がカヴァーした『灰色の瞳』は、加藤登紀子とのデュオで1974年に大ヒットした楽曲である。 他に代表曲として、『黒の舟唄』『卒業』『鳩笛』(NHKみんなの歌)など。

この記事は、2009年〜2011年の間に公開された記事のバックナンバーです。表示されているゲストの方の所属や肩書きは、掲載当時のものです。また、コロンビア産コーヒーに対するエメラルドマウンテンの割合も、その時の収穫量などにより、1%と表示されていることがあります。